電通との出会い

私が名古屋大学の大学院を卒業した1987年は、まさにバブル絶頂の時代です。就職も売り手市場でした。私の修士論文のタイトルは、「球の中における渦輪の数値シミュレーション」で大学院の研究室では、IBMの大型計算機をタイムシェアリングで使うという当時の最先端技術で研究をしていました。

自分としては、仕事はシステムエンジニア(SE)になるのを前提に、野村コンピュータサービス(今の野村総研)や、当時コンピュータビジネスに力を入れていたリクルートから内々定をいただいていて、どっちにしようか迷っていました。

そんな時、野村コンピュータサービスの人事部長さんが夜のお食事に誘ってくださいました。人事部長さんは、「SEは結婚が遅れるとか言われるけれど、うちは野村證券が親会社だから、野村證券の美人社員と合コンとかあって奥さんの心配もないよ」と仰りながら、「ほら、この写真を見てごらん」と渡された写真には、髪が長くて綺麗な野村證券の制服を着た数人の女性が写っていました。これにはかなり心が揺れましたね。その後、お酒も飲みながらいろんなお話をしていただいたのですが、人事部長がおっしゃった次の言葉が電通との初めての出会いだったのです。「うち(野村コンピュータサービス)のライバル企業は今はISID(電通国際情報サービス)1だけど、いつかは電通みたいになることが夢なんだよ」

私は「電通ってどんな会社なんですか?」と聞きました。実は私はそれまで広告にも全く興味もなく電通という会社もよく知りませんでした。人事部長からは「君は電通も知らないのか。世界一の広告会社だよ」と教えていただきました。

実はその頃、友人と趣味でフュージョンバンドのカシオペアのコピーバンドをやっていたのですが、そのバンドのメンバーの1人、巻島くんが電通のコピーライターだったのです。バンド仲間に電通社員がいたのに、どんな会社か興味もなく、どんな会社なのか彼に聞くこともなかったのです。

その人事部長の話を聞いてから、本屋さんで田原総一朗さんの「電通」という本を買って読みました。その本に書いてあった内容は当時の私には興味津々で、電通という会社への興味が高まっていきました。

ということで、ある日のバンドの練習後に巻島くんに「就職先として電通を考えているんだけどどう思う?」と質問します。彼は「給料はいいし、竹内もマーケティングの仕事は向いているかもね。」と言ってくれて、「かなり競争率が激しいから入るのは難しいけど受けてみたら」と言ってくれ、後日、新入社員向けの電通の業務マニュアルをもらいました。その書籍を読むとますます電通に入りたいという気持ちが高まって入社試験を受けることになります。

どれくらいの倍率だったか正確には覚えていませんが、かなりの難易度だったと思います。ペーパーテストを通過後、二次面接を経て、三次面接まで進みました。当時、電通は全国に支店があったので、私は名古屋支社からの受験でした。三次面接は、当時の電通名古屋支社幹部による面接です。後で分かったことですが、これが入社決定の最終プロセスでした。

この面接での私の主張は、「これまで自分は自然を科学してきたが、電通で人の行動の科学、マーケティングをしてみたい」という、いわゆる「青年の主張」です。私の主張に対して、当時、電通名古屋支社でテレビ部長だった村瀬明男さんから次のような厳しい指摘がありました。「マーケティングがやりたいなら、トヨタ自動車などメーカーに行けばいい。広告ビジネスはそんな甘っちょろい考えは通用しない。」

私は村瀬さんからのこの指摘に対して、次のように返しました。「自分は根性がある。だから、大丈夫です。」私の発言に対して、彼は即座に言いました。「根性があるなんて誰でも言えるわ。話にならん。」

私は「私は、東邦高校から名古屋大学に入りました。私のいう根性は嘘ではありません。」と返します。すると、面接官の幹部が一様に「東邦から名古屋大学か。それはすごいね。確かに根性あるわ。」

後で聞いたところによると、この一言で採用が決まったとのことでした。この面接でやり合った村瀬さんには入社後も可愛がっていただきました。

ところで、私の母校、東邦高校は高校野球では今も名門で有名です。私の東邦の同級生には当時一世を風靡したバンビ坂本投手がいました。ただ、残念ながら東邦高校は勉学の点では2流というのが当時の社会一般の認識でした。ですから、東邦高校から名古屋大学に入ったのも私が10年ぶりだったのです。

人生、何が幸いするかはわかりません。公立高校の受験に失敗して東邦高校に入学しましたが、東邦では素晴らしい先生方に出会うことができ、名古屋大学の受験に成功できました。電通への就職時にも、東邦高校に通っていたことが評価されたので、本当に東邦高校には感謝しています。

  1. ISID(電通国際情報サービス)は、GEがタイムシェアリングサービス(TSS)を日本国内で展開する際に電通と立ち上げた合弁会社。2024年1月1日に電通総研と社名を変更した。ISIDの創業は、吉田秀雄の指示のもとで自動視聴率計算システム「電通ビデオメーター」を開発した柳井朗人氏が米国で開始されたTSSに着目し、電通にTSS局が発足。電通が日本で民間初のTSSサービスの提供を開始したことに端を発する。 ↩︎